
両会で注目された張高澄道長から、全真龍門派の由来と歴史まで
2026年の両会期間中、道袍をまとった委員が人民大会堂の外で記者団に囲まれました。多くのカメラとマイクを向けられながらも、74歳の全国政治協商会議委員であり、中国道教協会諮問委員会主席である張高澄道長は、落ち着いた様子でスマートタブレットを手にし、その場にいた全員が一時停止ボタンを押されたかのような言葉を放ちました。「皆さん、あまり心配しないでください!」この言葉は、不安に満ちた現代社会にとってまさに適切な解毒剤となりました。

張高澄は、本名を張雪凌、法名を高澄といい、1952年に北京で生まれ、祖籍は四川省です。現任の中国道教協会諮問委員会主席、天台山桐柏宮の方丈であり、第14期全国政治協商会議委員、民族・宗教委員会委員を務めています。また、中国道教全真龍門派第27代伝承者であり、「高」の字輩に属します。
全真龍門派の弟子を識別する簡単な方法として、その百字「字輩表」があります。最初の三十字は「道德通玄静,真常守太清,一陽来復本,合教永圓明,至理宗誠信,崇高嗣法興」とされています。龍門派の弟子たちはこの字輩譜系に従って代々伝えられています。
この継承譜系は、現代の中国道教協会の指導部において特に明確に表れています。新しく選出された道教協会の指導部20人のうち、全真道に属する者は15人おり、このメンバーリストから龍門派の伝承者がかなりの割合を占めていることがはっきりとわかります。例えば、
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会長 李光富、道号は誠道、「誠」の字輩で、龍門派第24代弟子です。
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黄信陽、「信」の字輩で、龍門派第25代弟子です。
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黄至安、坤道(女性道士)、「至」の字輩で、龍門派第21代弟子です。
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唐誠青、頼保栄、胡誠林、張誠達は、いずれも「誠」の字輩で、龍門派第24代弟子です。
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孟崇然、董崇文、董中基は、いずれも「崇」の字輩で、龍門派第26代弟子です。
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黄至傑、孟至嶺は、いずれも「至」の字輩で、龍門派第21代弟子です。
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呉誠真、坤道、「誠」の字輩で、龍門派第24代弟子であり、2009年に武漢長春観の方丈に昇進し、中国道教初の女性方丈となりました。
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張高澄、「高」の字輩で、龍門派第27代弟子です。
龍門派の確立:全真の正統、道は天下を救う
全真派は「全真教」とも称され、道教の主要な流派です。創始者は王嚞(おうてつ)、号は重陽子で、世に知られる王重陽祖師です。王重陽祖師は金世宗大定七年(1167年)に山東省で布教し、「全性返真」を宗旨とし、説法の地を「全真庵」と名付け、入道した者を「全真道士」としました。
王重陽の門下には、馬鈺、譚処端、劉処玄、丘処機、王処一、郝大通、孫不二の七大弟子がいました。彼らはそれぞれ遇仙派、南無派、随山派、龍門派、嵛山派、華山派、清静派を創始し、世に「北七真派」と称されました。この中で丘処機が創始した龍門派が最も大きな影響力を持っています。

龍門派は、道教宗派である全真道の主流支派であり、全真教の教法を継承しています。「老荘の真を全うし、己を苦しめて人を利する」ことを宗旨としています。全真龍門派の創始者は高道である丘処機(きゅうしょき、邱とも書く)で、彼は南宋末期から金朝、モンゴル帝国が対峙する戦乱の時代に生きました。道号は長春子、山東省棲霞の出身で、歴史上有名な道士、思想家、文学者、そして医学者でした。
全真道龍門派の祖師として、丘処機は少年時代から修道救世の志を立て、故郷の棲霞の山中に長年隠居し、「松の花を頭に戴き松の実を食べ、松の渓流で月と共に松風を飲む」生活を送っていました。19歳の時、丘処機は寧海昆嵛山(現在の煙台市牟平区内)へ赴き、正式に学道し、全真道の祖師である王重陽に師事し、道号を長春子としました。

長い学道の生涯において、丘処機は王重陽に従って各地を巡り、道教全真派を広めました。その後、丘処機は隴州龍門山(現在の陝西省宝鶏市)で数年間潜修し、「煙火なく、食器も置かず」、毎日ただ「静かに思いを巡らせ、念を忘れ、丹経の祖を密かに考究する」生活を送りました。龍門山での潜修期間中に龍門派を創始し、後に全真道第五代掌教となり、全真道ひいては道教全体の発展を隆盛期へと導きました。
丘処機、「一言止殺」の千秋の功績
興定三年(西暦1219年)、チンギス・ハンは自ら20万の大軍を率いてホラズム帝国へ西征しました。彼は使者である劉仲禄らを詔書と共に山東省へ派遣し、丘処機をモンゴル帝国へ招きました。当時、宋、金、モンゴル、遼などが混戦する世の中でしたが、天下の民のために、73歳の丘処機は「我が帝のいる河上へ赴き、干戈を止め太平をもたらしたい」と慨嘆し、趙道堅、尹志平ら18名の弟子を伴って西へ旅立ちました。彼は道中多くの困難を乗り越え、ついに鉄門関の「大雪山」(現在のヒンドゥークシュ山脈)でチンギス・ハンと対面しました。丘処機はチンギス・ハンに、天を敬い民を愛し、虐殺を減らすよう強く勧め、これにより「一言止殺(一言で殺戮を止めた)」という千古の功績を残しました。

この出来事の後、丘処機の名は遠くまで広まり、チンギス・ハンは彼に「天下の出家者を掌管する」権限を与え、燕京の太極宮(現在の北京白雲観)に住まわせました。これにより、全真龍門派は白雲観を中心に教門を広く開き、宗風を大いに広め、各地の道士たちが次々と帰属し、教勢は金、宋、西夏全域に急速に拡大し、全真道の中で最も影響力があり、最も広く伝わる支派となりました。この歴史的契機は、龍門派が山林での苦行から廟堂での弘法へと移行させただけでなく、後世の「龍門中興」のための強固な政治的基盤と信者層を築き上げました。まさに「道脈は一言によって興り、宗風は止殺によってさらに振るった」と言えるでしょう。
結び
約800年近くにわたり、全真龍門派は「老荘の真を全うし」「己を苦しめて人を利する」という宗旨を一貫して堅持し、法脈は途絶えることなく、道風は長く受け継がれてきました。現代社会は物質文明が高度に発展していますが、人々の精神世界は多くの課題に直面しています。張高澄道長が「定住里頭(心の内を落ち着かせる)」という四字で示した清静の教えは、まさに全真龍門派が現代社会に貢献する道教の智慧です。道教界の一員として、私たちは大きな喜びと同時に重大な責任を感じています。千年受け継がれてきた道門の心法は、新しい時代においてさらに輝きを放ち、社会の調和と人々の心の安寧に貢献すべきです。

